今日中央線の車内から外を見ていて、前に友達に聞かれたことを思い出した。

「こわいものって何かある?」

その時僕が答えたのは、「深海」
そう答えたのは、例えだった。だって深海なんて行ったことないから。
聞かれた時に、反射的に答えたわけではなかった。少し考えた。
「こわい」っていうのは一体どこからやってくるのか?
僕の出した答えは、なんだかんだ言っても自分の想像力じゃないのかということ。
例えば、映画のジョーズとかは、最後の最後までジョーズ本体は出さないで、あの有名な
音楽とともに背びれが登場して、次には海に血が流れる。
そして、その間に起こったことは映像になっていない。
マンガのコマとコマの間のように、見てる人が想像する部分になる。
だから、逆にとてもこわく感じる。

僕たちは生活している上で、その大部分を視覚に頼っている。
だから、視覚的に不十分な場合はその足りない部分を補おうとしている。
その補いが想像なのだと思う。

だけれど、そんなことを書いていて、今ふと中学の時にやった視覚障害の体験授業を
思い出した。
内容は、友達とペアになり一方が目隠しをし、もう一方がその人を誘導し介助する
というもの。そして、階段を登ったり、教室を回ったりして、たしか屋上まで向かう
ルートだったと思う。
最初は誘導介助で、友達がヒーヒーいうの聞きながら誘導した。
いざ自分の番になった時も、同じく最初はヒーヒーいった、目の前に壁があるのじゃないか?急に段差になってないか?
そんなことを考えて脅えている時に、ふと思った。
サポートしてくれるヤツが一緒じゃないか!そして、自分が誘導してる時に自分は
どうやってどんな気持ちで友達を誘導していたかを。別に怪我をさせる為に誘導して
いたじゃないかって。
そのことに気がついてから、そいつに全部を委ねてみた。
そしたら、不安も何もかも消えてスイスイ移動出来た。

もしかしたら、こわいって思わせているのは想像力だけど、なんでそんな方向に
想像力が進んでしまうのかって考えると、一人でいるからかもしれない。
もっというと何か信じるものがないからかもしれない。

最初の話に戻ろう

中央線から外を見ていて、街灯が路地に立っているのを見て、その街灯と街灯の
間にうすぼんやりした暗い空間があった。
きっと僕がこわいものと考えた時に「暗闇」というのも考えた。
だけど、地面に足が着いていることを思うと、底のないように、どこまでも沈んでいく
ような暗闇の深海を思った。
そして、それは宇宙にも似ているのかもしれない。
どこを見ても星が瞬いているけれど、上下左右という理がない世界。

宇宙というなら、もう宇宙にいるじゃないかとも思う。
そう、だからこそ僕たちは地面の上にいて、重力を感じて、暗闇を照らして
そして、誰かと一緒にいたいと思う

そう思う


もし、毎日違う人と会っていたら、どうやって自分は自分になるのだろう?
生と死について

魍魎の箱は、身体と精神の剥離から永遠の生という存在へ

グラスホッパーは、死後の世界と自殺に関して

奴隷と階級制度

人身売買

まずホスピタリティとはなんぞや?という疑問があった。
それに対しては、サービスとの対比でその輪郭を浮き彫りにする方法がわかりやすい気がする。
個人的な理解としては、
サービス→万人に対象、一方通行、量
ホスピタリティ→対象が絞られている、相方向、質(リピーター)
という感じです。
そして、このホスピタリティは日本においては近年注目を浴びだした。
年代的には、90年中頃から。
また、書籍等はビジネス関係に多くみられる。福祉路線でも見ることはもちろんある。
トヨタは、米での成功をもとに日本でレクサスをブランド化したが、これはサービスとホスピタリティを取り違えていたこと
に原因があるとされている。
けれども、ホスピタリティ的な営業が日本の文化に馴染まなかったという視点はないのか?

簡単なまとめとして、
・バブル崩壊後の経済的な階層化に対処するために出てきたの営業戦略ではないか?
・サービス業において要求されているホスピタリティは、マニュアル化が難しいため
 経済的な階層→品性的な階層 という個人的背景がそのまま職務に影響するようになるのでは?
・マニュアル→完璧な理想的ストーリー が教科書的な位置づけになるのでは?
・階層化していることに対しては、それぞれに対応するホスピタリティが出来る。(←相方向な行為なので)

このホスピタリティの動きや考え方は、イリイチのコリヴァンティティ的なことへと繋がるのか?
と考えてみたりした。
選択肢の幅としては、産業的環境に置かれているよりは相方向になるので異なった変化を示すかもしれないが、幅としては
イリイチが言うほどの広がりはないし、階層化してしまうことを考える前提がことなる気もする。
このまま、理想を突き詰めていくと確かに社会主義に到達してしまう。
でも、階層内でのということと組み合わせると階層部分社会主義的な環境になっていくことになるのでは?
そして、その階層化の要因に経済的な背景をもとに家族や成長過程の環境が組み合わさり、サービス業においてはその品性や感覚に置ける階層化が見えるようになるのでは?

教育における項で
「金持ちは”正しい”テーブルマナーやアクセントを習得しており、こういったものは教えられるものではないと主張する。貧しいものたちは、教育が金持ちたちに生きるすべを教えられないような状況のもとで、品位を保ちながら自活して行くことを学ぶ。」(Illich:1973=1989/109-110)
頭がいいとか悪いとかって、どんななんだろう?
アイツはいろいろ知ってるけど、頭悪いよね

それは、選択のはなしなんだろうか?
どこでどの知識を使うかってことを指してて、知識量とは区別される基準が裏に存在しているのか?
そうだとしたら、頭のいいといわれる選択肢だけを知っていて、それを的確に選べれば頭がいいってことになる、と解釈できる。間違った余計な選択肢の混ざっていない、並び替え問題を解くのと同じで。
じゃあいろいろ知ってしまうと、間違った余計な選択肢が増えて問題の難易度が増してしまう、と逆にいうことが出来る。
けど、何を正しいか、愚かであるか、というのがわかるのは全てを選択肢終えたアトに始めて見えてくるものだと思う。

そして、選択したものの良し悪しを決定するのは、次の選択肢であって、またそれが続いて。

なんかもう、精一杯生きるしかないな。生き残れば、次の選択肢が存在するから。
どこに行っても、ねじ巻き鳥の第二幕が手に入らない。
別にアマゾンなんぞで、検索して購入すれば確実に手に入るだろう。
だけれど、こう行く先々で第一・三幕はあるのに、真ん中がポッカリと抜けている。
誰かが意図的に僕に読ませまいとしているかもしれないけれど、そんな暇な人はいないだろう。
あるいは何かのメッセージなのかもしれない。僕はそこから何かに気付かなくちゃいけないのかもしれない。
はたして何に?

人に何かを伝えるということは、曖昧な方がよいのだろうか?
何を伝えるか?ということによるのだろうけれど、100%伝えようとするとかえって伝わりにくくなってしまうこともある気がする。
タイミングも大きな要因になる。いかに巧みな言葉を紡いだところで、それを受ける人のその時の状況次第だったりする。
タイミングを図ったりすることは出来るのだろうか?
相手の心理状況を読んで、それに合わせた言葉を紡ぐ。
そして、そうしてるうちに本当に伝えるべきことへの輪郭を曖昧にしていく。
もしくは消してしまう。
けれども逆に、本当に伝えるべきことをタイミングを意識せずに紡ぎ出してしまえばよいかというと、それはそれで伝わらない。

結局、僕はなにも伝えられないかもしれない。
こっちを使うのはとっても久しぶり。
SNSの方にしばらく書いていて、当初はこっちだのあっちだの色々と使い分けていたりしてみたのだけれど、
性格的にそんな器用なことは出来そうに無いです。
というか、同じ人間が体験していることをバラバラなモザイク状にして散りばめてしまうと、なんか一つ一つが
取るに足らないものになってしまう気がする。
ついこの間、
「男の子は恋愛も部活も論文も全部トータルで優先順位を付けて考えてる風に見えるけど、女の子はレポートを書いて切羽詰まってても、それとは別に恋愛のことを考えていて、あまりそのことは交差とか比較しないんだよ」
っていう話をしていたことを思い出した。

確かに、このブログの収拾のつかなさは、僕がその例に漏れていないということを表しているといえる。
「分類する」という思考とか行為が苦手という意識はないのだけれど・・・・
きっと自覚の外で、すでに処理されてしまっていることなのかもしれない。

ゼミで野外音楽フェスの話になった。
そこから共同体の生成がどのように行なわれていくかとか、内部でどのようなつながりを維持しようしているとか、そんな話になった。
気になったのは、
「勝ち/負け」のような明確な二項対立を持った構図を持つ集団や共同体と「好き/嫌い」のような曖昧な二項対立をもつ集団や共同体が観察出来るかも 
という部分。
どのように人々が繋がっていくのか?ということを考えた時に、前者の勝敗や善悪の仕切りを設けた方が双方内部の結合は強固なものになる。だが、音楽フェスのような場面で、そのような対立構造が見られないということが報告にあり、でも人々が集まってくるという現象が一方で実際に起こっている。
確かに、本来は商業目的なのだから集まることは当然であろう。では、そこに集められた人々をつなぐものはなんだ?
そんなことを考えていた時に、ふと環境の話が記事として出ていた。
もしかしたら、これが人々をつなぐ糸になったりするかもしれない。「一つしかない、ぼくらの地球」みたいなことで、地球に優しくない→悪 まぁ悪までいくことはないと思うが、最近は集団あるところにECO活動や要素があるように感じられる。
僕たちをつなげているのは、結局のところ地球であり、現在のところ目の届く一番大きい範囲の問題、ということになるのかもしれない。



とりあえず、その日にブログを書けるという素晴らしさに乾杯。

今日は朝からアルバイト、本日の最高売値は380万でした。

今日は会社説明会に行ってきた。
そこで数々の素晴らしいことを得てきた。
まずは、人との話し方。
担当の人が、質問に対して逆に言い換えてから確認をし答えてくれた。
例えば:A「4人でジャンケンした時に、少なくとも一人が勝つ場合は・・・」
     坦「それは、あいこのときを除いた場合ととらえてよろしいですか?」
という具合です。これは自分で相手の質問をちゃんと消化出来てるかどうかの目安になると思う。
これは、今後自分が使えるようになっていきたい。
あとは、主に卒論に使えそうなネタと個人的に将来やりたいことに対する答えと。
今度はちゃんと卒論のインタビューとして行ければいいと思う。そして、自分の考えていたことは、そこまで的外れではなかったと思えた。高校の時に比べて進歩出来ててよかった。

今後、注目していきたいのはキャラクターとその背景にあるストーリー。
そんなことを思いブックオフに行ってみた。
とりあえず、幸運にも2冊ほど・・・・。

山田 徹
キャラクタービジネス―「かわいい」が生み出す巨大市場
竹森 健太郎
「タカラ」の山―老舗玩具メーカー復活の軌跡

本日は朝からバイト。今日はインターンな人が来ていて、着いてそうそう居場所がなかった。
でも、そのかわりに仕事がはかどっていつもより時間が過ぎるのが遅く感じた。
インターン人を見てると面白い。だんだん社員さんとの距離の取り方が変わってくるのを今日は観察してました。
まぁ そんなこと言ってても、明日は我が身だったりするんだけど・・・。
今日は久々に晩を自由に使えるから、いろいろ溜まってることをしようと考えていたのですが、、、手帳にカテキョ印が書いてあった。 すっかり、忘れてた。 学校に行ってレポートやろうと思っていたのに。そのレポートの締め切りも昼に班長さんから回ってきて、かなり予定変更を強いられてる感じです。
でも、以前やっていたバイトに比べて日々いろんなことが吸収できるので、バイトをしてても「俺はこんなことやってる場合なのか?」みたいな衝動に駆られるあまりない。
月曜にレポートを提出すれば、夜中は好きなことをする時間に使えるので少しうれしい。

明日からは、年に1度のビックなイベント週間です。そして、噂によると今年が最後らしい・・・。
非常に残念である。

今日こそは企画書を書き上げてメールしないと、隊長からシャイニングウィザードが飛ぶな・・・・。
というわけで、発表でした。用事により、早退しました。いろいろ聞きたかった発表が聞かなかったのが悔やまれますが、ひとまず一段落。その後、カテキョに行き、そして夜はオーストラリアでお世話になった人が日本に遊びに来たので会いに行きました。
居酒屋に着く。
そして、探す間もなく目に入ったタンクトップ一枚の落ち武者風サーファー。。。

絶句、間があり、爆笑!

・・・・ここ日本だから・・・・

いやー、面白い時間を過ごさしていただきましたよ。
帰り道若干吐きそうになったり、終バスが車庫行きで家にまで行ってくれなかったり、ホントに様々なむこうでの思い出がフラッシュバックするような一夜でした。